先週から第一期「ひとつとなって礼拝しよう」(4/26-6/14)が始まりました。その 目標は「共に礼拝していることを皆が意識できるようになる」ということであるこ とは先週書いたとおりです。しかし、そもそもなぜ「共に」なのでしょう。なぜ礼 拝をするために「集まる」のでしょうか。 ある人は言います。「一人で聖書を読んでいると、独りよがりの読み方になる。だ から正しく聖書を読むためには、教会に行かなくてはならないのだ。」――しかし、 出版事情の悪かった昔ならまだしも、今日、聖書を学ぶための書籍はいくらでも出 版されています。説教集も、たくさん出版されています。著名な説教者の説教は、 今日、いくらでも本として読めるのです。アメリカではもう何十年も前からテレビ で説教を聴くこともできます。しかも、日曜日の午前中にやっています。地元の教 会へ行くよりも、部屋のくつろげる椅子に座って、大画面の液晶テレビで、臨場感 あふれる映像を見、有名な伝道者の感動的な説教に涙する方がよいかもしれませ ん。今はインターネットで、そのような生中継がいくらでも見られる時代になりま した。特にここ数ヶ月で世界中の多くの教会が新たに礼拝を生中継するようになっ ています。そして、クレジットカードがあれば、オンラインで献金もすることもで 、、、、、、、、、、、、、 きます。要するに、何が言いたいかと言うと、ただ個人の宗教的ニーズを満たすた めであるならば、必ずしも「集まる」必要はないということです。
しかし、もう一方において、私たちは、世々のキリスト者が礼拝のために「集ま る」ということを大切にしてきたこと、「共に」礼拝することを大切にしてきたこと を知っています。ならばそれはなぜかをよく考えねばなりません。(次週に続く)
わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。詩篇34:4
祈りの課題
1.教会に集うことができなくなった求道中の方々のために。
2.緊急事態宣言の下、仕事を失い、住まいを失い、いのちの危機に直面 している人々のために。また、それらの人々を支えるための働きのため に。
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