• 頌栄教会

「なぜ集まるのか」(その2)

 現在、第一期「ひとつとなって礼拝しよう」(4/26-6/14)を共に過ごしています。 その目標は「共に礼拝していることを皆が意識できるようになる」ということです。  私たちは、世々のキリスト者が礼拝のために「集まる」ということ、「共に」礼拝 することを大切にしてきたことを知っています。そもそも、それは何のためだった のでしょう。その理解の足がかりとなるのは使徒言行録20:7です。そこには週 の初めの日(日曜日)に何のために集まっていたかがはっきりと書かれています。 それは「パンを裂くため」でした。今日の言葉で言うならば「聖餐を行うために」 ということです。まだ今日のような形ではありません。通常の食事の形を取ってい ました。パンを文字通り「裂いた」のです。しかし、通常の食事の形ではあっても、 明らかにそれは特別な食事でした。それは「主の晩餐」とも呼ばれていました。  ご存じのように、聖餐(主の晩餐)というのは、主が弟子たちと行った最後の晩 餐に由来します。主はパンを裂いて言われました。「これは、あなたがたのためのわ たしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:2 4)。その言葉のとおり、イエス様は御自分を渡してしまわれるおつもりでした。そ して、主は十字架にかかられて死なれました。体は釘で裂かれ、血が流されました。 イエス様が言われたとおりでした。ですから主の御言葉どおり、イエス様を記念し て、後のキリスト者は「主の晩餐を」行ったのです。キリストの復活の記念の日、 週の初めの日に行ったのです。そして、当然のことながら、集まることなくして、 共にいることなくして「主の晩餐」を行うことはできないのです。(次号に続く)

週の初めの日、わたしたがパンを裂くに集まっていると...。使徒言行録20:7


祈りの課題

1.ペンテコステへと向かう復活節の時をふさわしく過ごすことができる ように。

2.休校の期間自宅で過ごしている子どもたちのために。学業の継続が困 難となっている学生たちのために。

2回の閲覧

最新記事

すべて表示

「終わりに備える生活(2)」(信仰生活入門30)

葬儀は誰のために行われるのでしょうか。 まず考えられるのは、葬儀は亡くなった方のため、またその御遺族のために行 うということでしょう。葬り方によって亡くなった人の運命が左右されるわけで はありません。死の向こうは神の領域ですから。亡くなった方を手厚く葬ること は純粋にその方に対する愛の表現です。また、葬儀は遺族のための慰めでもあり ます。慰めは人々の愛によっても与えられますが、最終的には福音の言葉

「終わりに備える生活(1)」(信仰生活入門29)

人生の終わりである「死」に向けてきちんと備えをすることができるためには、 自らの「死」と平安をもって向き合うことのできる確かな根拠が必要です。その ためには単なる「死は終わりではない」という言葉や、一般的な「霊魂不滅の思 想」は本質的に助けになりません。「死」と向き合うことは、自らの人生と向き 合うことでもあるからです。人生における罪責を負ったまま、死んでもなお永遠 に罪人として《不滅》であるとす

「悪魔に打ち勝つ生活(4)」(信仰生活入門28)

「神の武具」について、前回の続きです。 4「信仰の盾」 この「盾」とは体がすっぽりと入る大盾を意味します。「悪 い者(すなわち悪魔)」は様々な形で「火の矢」を放ってくることでしょう。時 にそれは「誘惑」であり、時には「艱難」であるかも知れません。私たちは悪魔 に対して「火の矢を放つな」とは言えません。火の矢が飛んでくる現実は避けら れません。しかし、その火の矢で火だるまになる必要もありません。火の