• 頌栄教会

「なぜ集まるのか」(その6)

最終更新: 9月13日

 先週の主日は聖霊降臨祭でした。あの五旬祭の日、再び集められた主の弟子たち が共に祈っていた時、彼らの上に聖霊が降りました。そして、そこから教会の宣教 の歴史が始まりました。それゆえ私たちは毎年聖霊降臨祭を祝います。  これまで見てきたとおり、教会はその初めから、主の晩餐を行うために集まりま した。それは主が愛されたように、互いに愛し合う共同体を形成するためでした。 それは根本的には、愛を遠ざけ、関係を破壊する「罪」との戦いを意味しました。 それはキリストの戦いに参与することに他なりませんでした。キリストの戦いなら ば、既に勝利は定まっています。それゆえに、主の晩餐を行うことは勝利の祝いを も意味しました。そして、はっきりしていることは、あの聖霊降臨がなければ、こ れらすべては起こり得なかったということです。教会が集まり行っていることは、 聖霊の御業によって始まり、聖霊の御業によって成り立っているのです。  先週のコラムではエフェソの信徒への手紙1章を引用しましたが、そこでは「聖 霊」について、「わたしたちが御国(神の国)を受け継ぐための保証である」と表現 されています。「保証」というのは、手付け金を表す言葉です。やがて救いが完成し、 神の国を見ることになります。いわば全額をいただく時が来る。その一部を先にい ただくのです。今はまだ、救いは完成していません。自分の罪、この世の罪によっ て引き裂かれた世界に私たちは生きています。しかし、そのような世界に聖霊が降 り、私たちはその御業の中で、共に集まるようになりました。そこには戦いがあり ます。そして祝いがあります。そのすべてにおいて私たちは神の国を既に味わいはじめているのです。(清弘剛生)


この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。エフェソ1:14


祈りの課題

1. 日々聖霊に満たされ、遣わされている場においてキリストを証しして 生きることができるように。

2. 教会に集うことができない子どもたちのために。(次聖日は「花の日・ 子どもの日」です。)

0回の閲覧

最新記事

すべて表示

「悪魔に打ち勝つ生活(2)」(信仰生活入門26)

3世紀初頭に書かれた「ヒッポリトスの使徒伝承」という文書によると、古代 の洗礼式においては、志願者が司祭の右に立ってこう宣言することになっていた ようです。「サタン、わたしはおまえと、おまえの一切の虚栄と、おまえの一切 のわざを捨てる」。つまり洗礼は新しい命に生きることを意味するのですが、それはまたサタンに反旗をひるがえして戦う者として生きることをも意味したの です。それゆえに、洗礼式は「入隊式」

「悪魔に打ち勝つ生活(1)」(信仰生活入門25)

今回のテーマは「試練」と「誘惑」に関するものです。「試練」と「誘惑」の 問題について語るときに、どうしても避けて通ることができないのは「悪魔」に ついて語ることです。 さて、この「悪魔」についての二つの誤った態度があります。一つは過度に不 健全な関心を向けることです。今日、「悪魔」という検索ワードで検索するなら ば、約九千万件のヒットがあります。それだけ様々な関心から「悪魔」について 語られている

「神に献げる生活(4)」(信仰生活入門24)

私たちは自分で自分自身を造ったのでも、自分で自分自身を生かしているので もありません。また、自分で自分を救ったのでも、自分で永遠の命を獲得したの でもありません。すべては恵みによって与えられているのです。私たちは自分が 造ったのではない世界に取り囲まれ、自分が造ったのではないものによって支え られ、それらを通して生かされてきたのです。また自分の力によってではなく、 ただキリストが全てを捧げてくださ