• 頌栄教会

「キリストを証しする生活(3)」(信仰生活入門15)

  イエス・キリストの福音は人間の言葉をもって伝えられます。ですから、あくまで人間が伝えなくてはなりません。神による救いの御業は神御自身によって人間の働きとは無関係に進められるのではありません。そこには人間の役割があるのです。

 しかし、人間の言葉それ自体は、他の人間に信仰を持たせることはできません。人がイエス・キリストを信じるのは人間の説得力によるのではなく、それは聖霊の働きであり、神の為したもう奇跡です。それゆえに聖書において信仰は神から受けた賜物として語られているのです。ファン・ルーラーという神学者はしばしば「聖霊がその魔法の杖で心に触れることによって、その心に福音の通路を造るのである」という素朴な表現を用いていますが、まさにそうとしか表現できない神秘がそこにあるのです。

 そのように、これは神のお働きなのですから、私たちは福音を人間の言葉をもって伝えると共に、そこに神の御業を切に求めねばなりません。教会の伝道の働きには、神の救いの御業を求める熱心な祈りが必然的に伴うものなのです。私たちが愛をもって家族や友人に神のことを語るだけでなく、その同じ愛をもって家族や友人のことを神に語らねばならなりません。祈りを伴わない伝道は、それがどれほど善意に満ちたものであれ、相手を支配しようとする傲慢な押しつけとなってしまうものです。                    (清弘剛生)

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。 2ペトロ1:1

4回の閲覧

最新記事

すべて表示

「終わりに備える生活(2)」(信仰生活入門30)

葬儀は誰のために行われるのでしょうか。 まず考えられるのは、葬儀は亡くなった方のため、またその御遺族のために行 うということでしょう。葬り方によって亡くなった人の運命が左右されるわけで はありません。死の向こうは神の領域ですから。亡くなった方を手厚く葬ること は純粋にその方に対する愛の表現です。また、葬儀は遺族のための慰めでもあり ます。慰めは人々の愛によっても与えられますが、最終的には福音の言葉

「終わりに備える生活(1)」(信仰生活入門29)

人生の終わりである「死」に向けてきちんと備えをすることができるためには、 自らの「死」と平安をもって向き合うことのできる確かな根拠が必要です。その ためには単なる「死は終わりではない」という言葉や、一般的な「霊魂不滅の思 想」は本質的に助けになりません。「死」と向き合うことは、自らの人生と向き 合うことでもあるからです。人生における罪責を負ったまま、死んでもなお永遠 に罪人として《不滅》であるとす

「悪魔に打ち勝つ生活(4)」(信仰生活入門28)

「神の武具」について、前回の続きです。 4「信仰の盾」 この「盾」とは体がすっぽりと入る大盾を意味します。「悪 い者(すなわち悪魔)」は様々な形で「火の矢」を放ってくることでしょう。時 にそれは「誘惑」であり、時には「艱難」であるかも知れません。私たちは悪魔 に対して「火の矢を放つな」とは言えません。火の矢が飛んでくる現実は避けら れません。しかし、その火の矢で火だるまになる必要もありません。火の