• 頌栄教会

「レントの黙想」(1)

 丘の上には三本の十字架が立てられました。互いに離れた場所に立てられたわけではありません。福音書の伝えるところによるならば、十字架にかけられた犯罪人たちは苦しい息のもとにあってもなお互いに語り合うことができた。そして、キリストとも語り合うことができた。それほど近いところに三本の十字架は立てられていたのです。

 二人の犯罪人は、あの時、確かにキリストの近くにいました。いや、正確には「いさせられた」が正しいでしょう。彼らは自ら好んで十字架にかかったわけではありませんから。十字架にかけられているのは、捕まったからです。裁判にかけられたからです。死刑の判決が下されたからです。彼らが何をしたのかは分かりません。マルコによる福音書には「二人の強盗」と書かれています。あるいは政治犯であったのではないかと言う人もいます。いずれにせよ、当時の最も残酷な死刑と言われた十字架刑に処せられたことは、彼らにとって不幸であったと言えるでしょう。しかし、福音書は私たちに伝えているのです。その時、彼らは確かに救い主のすぐそばにいたのだ、と。声が届くほど近くに。声を聞いてもらえるほど近くに。いかなる過程を経たにせよ、兎にも角にも彼らは救い主のもとにたどり着いたのです。連れて来られたのです。ならばそこにはただ苦しみがあるだけでなく、神の恵みもあると言えるのでしょう。もちろん神の恵みが必ずしも恵みとして受け取られるわけではありません。しかし、それでもなおこの二人の犯罪人には等しく神の恵みは届いていたと言えるのです。

 あなたはどのようにして救い主のそばに連れて来られましたか。 (清弘剛生)

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。ルカ23:32‐33

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