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  • 執筆者の写真頌栄教会

「主の日に集まる生活(2)」(信仰生活入門2)

 礼拝のスタイルは時代によって、あるいは地域によって変わりますが、その基本的な構造と本質的な内容は二千年来変わっていません。なぜならそれは変わらざるものを土台として成り立っているからです。

 ドイツにヘルムート・ティーリケという神学者がいました。彼の「主の祈り」という説教集は長く読み継がれてきた名著です。そこに収められているのは戦時中に語られた「主の祈り」の講解説教です。その前書きには次のように書かれています。「ここに収めた説教の行われた教会堂は次々に爆破され、ついには、わたしたちは廃墟から廃墟へとさすらわねばなりませんでした。礼拝はしばしば空襲警報によって中断されました。(中略)まさにあの時には永遠の御言葉が特別に力強さを示したのでした。最も強固な壁でさえ崩壊し、最も高貴なヒューマニズムでさえもはや力なきところで、永遠の御言葉は、人間を支え、また慰めることのできる、そういう力であることを自ら示したのです。」

 目に見えるこの世界も私たちの生活も絶えず変化していきます。社会の変化のみならず、例えば私たち自身や家族の健康が損なわれても、大切な人が失われても、私たちの人生は一変し得ることを私たちは知っています。しかし、神は永遠に変わりません。神の救い、神の恵みも変わりません。神の御言葉も変わりません。私たちはその変わらざるものを土台として生きることができるのです。主の日の礼拝を重んじて生きることは、この永遠に変わらざる土台の上に人生を築いていくことに他ならないのです。               (清弘剛生)

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 イザヤ40:8

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「御心が行われますように」(主の祈り5)

「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので

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