御言葉に聴く生活を築く上でまず重要なことは、主日礼拝における聖書朗読を神の言葉として聴くことです。
礼拝では私たちそれぞれが好みの箇所を自分勝手に選んで読むのではありません。今日のために前もって選ばれていた聖書箇所の朗読を聴くのです。つまり純粋に「与えられた言葉」として聖書朗読を聴くのです。そこで重要なことは、神が今日この聖書の言葉を与え、神が今日ここにいる私たちに語りかけていてくださるのだ、という意識を持って聴くことです。
聖書は三箇所朗読されます。朗読の間、聖書は必ずしも開かなくて結構です。大切なことは「聴くこと」ですから。もちろん開いても構いません。しかし、聖書朗読が既になされているのに、御言葉に耳を傾けず、まだ一生懸命に聖書を開くことに気をとられているならば本末転倒です。何のために聖書を開くのか分かりません。もし聖書を開くなら前もってしおりを挟んでおいて、すぐに開けるようにしておくとよいでしょう。とにかく集中して聴くことです。
説教は聖書朗読の解き明かしに過ぎません。大事なのは説教よりも聖書の言葉そのものです。その週の聖書朗読を自分への語りかけとして聴くのでなければ、説教も自分への語りかけとして正しく聴くことはできません。せいぜい単なる「良いお話」か、もしくは良く分からない「退屈な話」に過ぎないものとなってしまいます。それでは礼拝になりません。聖書朗読の聴き方が変われば礼拝そのものが変わります。 (清弘剛生)
わたしの魂はあなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。 詩編119:81
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