礼拝説教は、その日に朗読された聖書の解き明かしです。それゆえに「牧師は今日何を話すのだろうか」ではなく、「今日の聖書箇所は何を語っているのか」と考えながら聴くことが大事です。それはすなわち、「今日の聖書箇所を通して、神は私に、また私たちに、何を語ろうとしておられるのか」と考えながら聴くということです。そうあってこそ礼拝説教が「御言葉に聴く生活」を形作ることにもなるからです。
礼拝説教については、しばしば「長いか、短いか」「分かりやすいか、分かりにくいか」「感動したか、感動しないか」といったことが話題となります。しかし、長いか短いかはさておき、説教については「分かりやすい」とか「感動的である」という評価はけっこう曲者なのです。身近な日常の話や体験談が豊富に語られてとても分かりやすい話なのだけれど、当日読まれた聖書箇所にはほとんど触れられていない“感動的な礼拝説教”なるものもあり得るからです。しかし、それでは礼拝説教がその務めを果たしているとは言えないのです。
朗読された聖書の御言葉の解き明かしとして礼拝説教を聴く。――その意識をしっかりと持つならば礼拝の守り方が変わります。また礼拝に集う意味も変わってくることでしょう。毎週の礼拝はおのずとおろそかにできなくなります。神の語りかけを聴き、神を知り、神の御心を知る者となることほど、人生において重要なことはないからです。 (清弘剛生)
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 ルカ4:20‐21
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