• 頌栄教会

「我らの父よ」(主の祈り1)

「天にまします我らの父よ」――イエス様が教えてくださった「主の祈り」に

おける呼びかけの言葉です。

使徒信条においては、「我は…信ず」と言って信仰を言い表します。そこでは

他の人がどうこうではなくて、私は何を言い表すかが問われます。その時、私は

たった一人で神の御前に立つことになります。そのように「我は…信ず」と言っ

て人は洗礼を受けるのです。しかし、そのように信仰を言い表す時、その人はま

た、共に「我らの父よ」と神に向かって呼びかける神の家族、そのように共に礼

拝をささげる神の民の一人として交わりの中に身を置くことになるのです。

さて、私たちは今もなお、主日に自由に共に集まることができません。礼拝堂

に集まる人がおり、また、同じ時を聖別してそれぞれの場所において礼拝をささ

げる人がいます。そのような私たちであるからこそ、なおのこと「我らの父よ」

という呼びかけは大きな意味を持っていると言えるでしょう。礼拝堂に集まって

いる人は、そこに身を置くことのできない人を思いつつ「我らの父よ」と口にし

ます。自宅で一人で礼拝をささげている人は、その時、礼拝堂において、あるい

はそれぞれの場所において礼拝をささげている人たちを思いつつ「我らの父よ」

と口にします。そして、さらには世界中の教会とつながり、代々の聖徒たちとつ

ながっていることを思いながら「我らの父よ」と呼びかけるのです。

そのように共に父を呼ぶ神の家族、神の民としてささげる礼拝から、私たちは

この世に遣わされていきます。もしかしたら家族の中では、あるいは職場、学校

ではたった一人のキリスト者であるかもしれません。しかし、「我らの父よ」と

祈る私たちは、どこに遣わされても、決して独りではありません。 (清弘剛生)




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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので