• 頌栄教会

「神と人とに仕える生活(2)」(信仰生活入門18)

前回のコラムにおいて、キリスト者の奉仕の土台は《神への献身》であると書きました。信仰によらなくとも人は献身的であり得ます。しかし、主が求めているのは単に私たちが献身的であることではありません。大事なことは、それが《神への献身》であることであり、それが私たちの信仰に由来するということです。  私たちはキリストが私たちの罪のために十字架におかかりくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったと信じています。それはすなわち、パウロの表現によるならば、キリストが私たちのために支払ってくださった代価によって私たちは買い取られたのであり、もはや自分自身のものではないということです(1コリント6:20)。しかも、そのように私たちの体を買い取って主のものとしてくださったのは、私たちのこの体に神の霊が宿るためだったというのです。私たちの体は聖霊の宿る神殿なのであり、もはや自分自身のものではありません。この贖罪信仰に基づく自己理解こそが神への献身をもたらすのです。

私たちはこの身を献げます。この体は既に神のものだからです。私たちはこの身を献げます。私たちの内に宿ってくださる聖霊に、私たちの体を御業のために用いていただくためです。キリスト者の献身は、自ら信じて言い表している信仰を目に見える形とすることに他なりません。この献身こそがキリスト者の奉仕の土台となるのです。                     (清弘剛生)

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。 1コリント6:19‐20

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので