• 頌栄教会

「神と人とに仕える生活(2)」(信仰生活入門18)

前回のコラムにおいて、キリスト者の奉仕の土台は《神への献身》であると書きました。信仰によらなくとも人は献身的であり得ます。しかし、主が求めているのは単に私たちが献身的であることではありません。大事なことは、それが《神への献身》であることであり、それが私たちの信仰に由来するということです。  私たちはキリストが私たちの罪のために十字架におかかりくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったと信じています。それはすなわち、パウロの表現によるならば、キリストが私たちのために支払ってくださった代価によって私たちは買い取られたのであり、もはや自分自身のものではないということです(1コリント6:20)。しかも、そのように私たちの体を買い取って主のものとしてくださったのは、私たちのこの体に神の霊が宿るためだったというのです。私たちの体は聖霊の宿る神殿なのであり、もはや自分自身のものではありません。この贖罪信仰に基づく自己理解こそが神への献身をもたらすのです。

私たちはこの身を献げます。この体は既に神のものだからです。私たちはこの身を献げます。私たちの内に宿ってくださる聖霊に、私たちの体を御業のために用いていただくためです。キリスト者の献身は、自ら信じて言い表している信仰を目に見える形とすることに他なりません。この献身こそがキリスト者の奉仕の土台となるのです。                     (清弘剛生)

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。 1コリント6:19‐20

11回の閲覧

最新記事

すべて表示

「終わりに備える生活(2)」(信仰生活入門30)

葬儀は誰のために行われるのでしょうか。 まず考えられるのは、葬儀は亡くなった方のため、またその御遺族のために行 うということでしょう。葬り方によって亡くなった人の運命が左右されるわけで はありません。死の向こうは神の領域ですから。亡くなった方を手厚く葬ること は純粋にその方に対する愛の表現です。また、葬儀は遺族のための慰めでもあり ます。慰めは人々の愛によっても与えられますが、最終的には福音の言葉

「終わりに備える生活(1)」(信仰生活入門29)

人生の終わりである「死」に向けてきちんと備えをすることができるためには、 自らの「死」と平安をもって向き合うことのできる確かな根拠が必要です。その ためには単なる「死は終わりではない」という言葉や、一般的な「霊魂不滅の思 想」は本質的に助けになりません。「死」と向き合うことは、自らの人生と向き 合うことでもあるからです。人生における罪責を負ったまま、死んでもなお永遠 に罪人として《不滅》であるとす

「悪魔に打ち勝つ生活(4)」(信仰生活入門28)

「神の武具」について、前回の続きです。 4「信仰の盾」 この「盾」とは体がすっぽりと入る大盾を意味します。「悪 い者(すなわち悪魔)」は様々な形で「火の矢」を放ってくることでしょう。時 にそれは「誘惑」であり、時には「艱難」であるかも知れません。私たちは悪魔 に対して「火の矢を放つな」とは言えません。火の矢が飛んでくる現実は避けら れません。しかし、その火の矢で火だるまになる必要もありません。火の