• 頌栄教会

「神と人とに仕える生活(3)」(信仰生活入門19)

 教会はキリストの体です。私たちはいかなる場面においても単独で存在するのではなく、キリストの体の一部分として存在しているのです。

キリストの体の一部であるということは、まず「キリストにとってかけがえのない部分であること」を意味します。それゆえに人との比較において自分を計ってはなりません。「耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(1コリント12:16)。自分を卑下しないこと。他の人との比較ではなくて、キリストとの関係において託されていることを最善に行うことです。

また、キリストの体の一部であるということは「他の部分をも重んじるべきこと」を意味します。他者の奉仕を尊重することです。他の部分をいらないと言ってはいけません。他の部分を重んじない独りよがりの働きは体を傷つけることになります。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(1コリント12:21)。

 そして、私たちがキリストの体の一部であるということは「キリストの御意志を実現するために存在していること」を意味します。奉仕の場は自己実現の場ではありません。承認欲求は奉仕の妨げとなります。キリスト者の奉仕は、自分の欲求を満たし願望を実現するための手段ではありません。キリスト者の奉仕には、主の御心を尋ね求める祈り、そして、主の御心の実現を求める祈りが伴っていることが必要です。                    (清弘剛生)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 1コリント12:27

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので