• 頌栄教会

「終わりに備える生活(1)」(信仰生活入門29)

 人生の終わりである「死」に向けてきちんと備えをすることができるためには、 自らの「死」と平安をもって向き合うことのできる確かな根拠が必要です。その ためには単なる「死は終わりではない」という言葉や、一般的な「霊魂不滅の思 想」は本質的に助けになりません。「死」と向き合うことは、自らの人生と向き 合うことでもあるからです。人生における罪責を負ったまま、死んでもなお永遠 に罪人として《不滅》であるとするならば、それほど恐ろしいことはありません。  私たちがこの世の生の終わりについて、安心して考え、備えができるとすれば、 それはキリストの十字架のゆえです。罪の赦しが与えられ神との間に平和を得て いるからです。聖書にはこう書かれているとおりです。「書き記せ。『今から後、 主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」(黙示録14:13)。普通「死ぬ人」は 幸いには見えないものです。ヨハネの黙示録が書かれた当時、迫害の中で不当に 殺された人ならなおさらでしょう。しかし、聖書は「幸いである」と断言し、さ らにこう続けるのです。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行 いが報われるからである」と。そう確信をもって言えるのは、「主に結ばれて」 いるからです。それゆえ私たちは「死」を見えないところにしまい込んで蓋をし て、「死」とは無関係であるかのように生きる必要はありません。この世の生の 終わりと明るく向き合う。明るく現実的に備えをする。それが主に結ばれている者の姿です。


また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて人は幸いである。』と。」”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」黙示録14:13

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので