「おとめマリアより生まれ」(使徒信条7)
「おとめマリアより生まれ」。使徒信条の中に出てくる言葉です。いわゆる「処女降誕」については、抵抗を覚える人も少なくないでしょう。しかし、重要なポイントは超自然的な処女の懐胎にあるのではありません。福音書はこの奇跡を殊更に強調することなく、むしろ極めて控えめに語っているのです。この信仰告白の強調点は御子なる神がマリアという何の変哲もないごく普通の女性に宿って出産されたことにあります。しかも、ここで「おとめマリアを通して」生まれたのではなく、あくまでも「おとめマリアより(ラテン語では"ex")」生まれたと語られているのです。御子なる神は、単にマリアを通過したのではなく、人間としての御性質を、確かにこの世の生を営むマリアという人間より受け取られたのです。御子なる神は、この世の中で人間として生きるという現実を、確かに私たちと全く同じように受け取られたのです。これを「御子の受肉」と言います。福音書では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と表現されています。
この世に生きる人間であるということ、私たちが「肉」であるということは、まことに厳しい現実です。私たちは生きている間、幾度もそのことを思い知らされます。しかし、そのような厳しい現実の中に私たちは捨ておかれているのではありません。神様はこの世界と私たちに無関心ではおられない。私たちが信じているのは、私たちを救うために徹底して関わってくださる神様です。どれほどに?御子について「おとめマリアより生まれ」と言い表されているほどに。御子が受肉されたほどにです。 (清弘剛生)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネ1:14
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