• 頌栄教会

「全能の父なる神を信ず」(使徒信条1)

「全能の父なる神を信ず」(使徒信条1)

 使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉から始まります。私たちは漠然と「神」を信じているのではなく、神を「全能の父」として信じているのです。(ちなみに、日本語ですと「天地の造り主」が先ですが、原文では「全能の父」が先になります。)しかし、この言葉には注意が必要です。「父なる神」という言葉は「あなたたちの親から類推して神さまを考えなさい」という意味で用いられているのではありません。もしそうなら「そんな神なら信じたくない!」という人も出てくることでしょう。「全能の父なる神を信ず」という信仰告白は、後に続く「我はその独り子、イエス・キリストを信ず」に対応しているのです。つまりこの「父」は「その独り子」の父なのであって、「父なる神」は、第一義的には、イエス・キリストの父なる神を意味するのです。

 「父なる神」という言葉を耳にするとき、私たちは自分の経験してきた親子関係ではなく、イエス・キリストがまったき愛と信頼をもって「父よ」と呼びかけている姿を思わなくてはなりません。キリストの顔が向けられている先に、すべて父なる者の原型であるまことの父がおられます。そして主は、私たちも御自分と同じように、まことの父に信頼して生きるようにと招いてくださったのです。キリストがこの父と私たちを結び付けてくださいました。神を父として知り、神を父と呼ぶ――そこにこそ救いはあります。なぜなら他ならぬこの父は全能であり、またその愛は完全だからです。今日も私たちは安心して幼子のごとく「アッバ、父よ」と呼びながら生きることが許されているのです。   (清弘剛生)

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 ローマ8:15

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので