使徒信条では、「我は聖霊を信ず」と言った後、すぐに「聖なる公同の教会」と続きます。これはもちろん「聖なる公同の教会を信ず」ということです。これは教会について、信ずべき神的側面があることを意味します。教会は家族や民族共同体のように、自然に基づく共同体ではありません。教会はまたサークルやクラブのように、人間の意志的な選択に基づく共同体でもありません。そのようなものであるならば何も「信ずる」必要はありません。聖書は教会を、自然ではなく、人間の選択でもなく、神の意志に由来する共同体なのだと語ります。教会はそれゆえ神のものであり、神に属するのです。これが「聖なる」という言葉の意味するところです。この側面は聖書において様々な表現をもって言い表されています。例えば、教会は神の民である(1ペトロ2:10)。教会はキリストの体である(エフェソ1:23)。教会は聖霊の神殿である(1コリント3:16)。これらは皆、私たちの肉の目には見えない側面です。見えないものであるゆえに、私たちは「信ずる」のです。そして、教会が聖なるものであり、唯一の神に属することを信じるということは、教会があらゆる国教を越え、さらに人種や文化、社会的な地位や世代を越え、世に存在するあらゆる違いを越えて一つであることを信じることでもあります。これを信条では「公同の教会を信ず」と表現します。それはまた、教会の公同性が目に見える形で現れることを願いつつ、教会を分断させようとするあらゆる誘惑に抵抗することをも意味するのです。 (清弘剛生)
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 1コリント1:2
Comments