《永遠》という言葉は、本来、私たちとは全く無縁の言葉です。少なくとも、私たち人間の経験には《永遠なるもの》は存在しないからです。私たちが手にしているもの、目にしているものは、どんなに確かに見えるものであれ、一つ一つ崩れ去り、失われていくものです。一人一人の人生もまた、過ぎ去っていきます。しかし、礼拝において私たちは、およそ私たちとは無縁であったこの《永遠》という言葉を口にするのです。「我は永遠の命を信ず」と。
「永遠の命」とは何か。それはイエス様の言葉によれば、父なる神とイエス・キリストを知ることです。「知る」とは単に知識を得ることではありません。その言葉が意味するのは人格的な交わりです。永遠の命とは、父なる神とキリストとの交わりに加えられることに他なりません。しかし、本来、《永遠》という言葉を冠することができるのは永遠なる神だけです。それゆえに、人間が永遠について語り得るとするならば、それは神との交わりなくしてあり得ないのです。 しかし、もう一方において私たちは、私たち自身の罪が神との交わりを妨げていることを知っています。神との交わりは罪の問題の解決なくしてあり得ないのです。そのためにこそイエス・キリストは来てくださいました。私たちの罪を贖い、私たちを救うためです。主が成し遂げられたことは、既にイエス・キリストに関する信仰告白の言葉において言い表されております。主の御業が、聖霊の働きによって、私たち自身に罪の赦しをもたらすのです。そして、私たちは「罪の赦し」に続いて、「永遠の命を信ず」と告白し、私たちの最終的な希望を言い表して、神に栄光を帰するのです。 (清弘剛生)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 ヨハネ17:31
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