• 頌栄教会

「神の右に座したまえり」(使徒信条15)

 使徒信条には、キリストがただ天に昇られたことだけでなく、「神の右に座したまえり」と語られています。それはいったい何を意味するのでしょうか。

 第一に、その言葉は、天においてキリストが私たちのために執り成していてくださることを意味します。使徒信条の原文(ラテン語)において、「天に昇り」まではすべて完了形で書かれており、キリストの誕生、生涯、十字架、復活、昇天はすべて過去の出来事として語られています。しかし、「神の右に座したまえり」は現在形で書かれているのです。キリストは永遠の大祭司として、今、私たちのために執り成していてくださる。過去における罪の贖いは、そのようにして現在の私たちの救いとなるのです。

 第二に、それはキリストの支配を意味します。右の座とは全権を委ねられた者の座です。復活されたキリストこそが、父なる神の全権を委ねられた王であり、まことの支配者であるということです。この世はキリストの王権を受け入れているわけではありません。そのようなこの世のただ中で、この世に先立って、キリストの王権を受け入れ、キリストに従って生きようとしているのが教会であり、そこに属するキリスト者です。私たちが礼拝において「神の右に座したまえり」と信仰を言い表す時、私たちはキリストを王とし、その王国の民として生きる者であることを公言しているのです。それゆえにまた、「神の右に座したまえり」という信仰の欠如は、我が儘で自己中心のキリスト者を生み出すことにもなるのです。                           (清弘剛生)

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 ローマ8:34

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので