• 頌栄教会

「私たちの造り主を信ず」(使徒信条3)  先週のコラムにおいて、神を「天地の造

「私たちの造り主を信ず」(使徒信条3)

 先週のコラムにおいて、神を「天地の造り主」として信じるということは、私たちもまた神によって創造されたと信じることだと書きました。今回はこのことについて、もう少し書かせていただきたいと思います。

 神を私たちの造り主として信じるということは、「この私が存在することは神の意志によるのだ」と信じることでもあります。それは「私は神に望まれて生まれてきたのだ」と信じること、と言い換えてよいでしょう。「わたしなんていない方が良いのではないか」と思ったとしても、仮に世界中の人が「あなたなんていない方が良い」と言ったとしても、「わたしはあなたにいて欲しい」と言う御方が少なくとも一人はいる。神があなたの造り主であるとはそういうことです。

 そして、神が造り主であるならば、私たちが存在する目的と意味は、私たち自身が持っているのではなく、神が持っておられるのです。このことを理解することは、生きていく上で極めて大事なことです。人はある程度の年齢になれば一つ一つ失いながら生きていくことになります。かつてできたこともできなくなります。何かができることに自分が存在することの意味を見出していた人は、できなくなったときに存在の意味を見失います。何かをしてあげることに自分の存在の意味を見出していた人は、何かをしてもらう立場になったとたんに生きていくことが困難になります。ですから、聖書は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と勧めるのです。もっともこれは既に年を取っている人は手遅れだということではありません。今日が残された人生で最も「若い日」なのでから。誰であれ「今日」という日こそ、造り主を覚えるべき日なのです。 (清弘剛生)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。 コヘレト12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。 同上(聖書協会訳)

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので