• 頌栄教会

「聖徒の集まり」(使徒信条21)

更新日:2018年12月17日

  先々週のコラムにおいて、使徒信条の中の「聖徒の交わり」は「聖なるものの交わり」とも訳せることに触れました。しかし、もちろんこれを「聖徒の交わり」と訳すことも間違いではありません。「聖徒」とは言い換えれば「聖人」です。さて、いったいどこに「聖人」がいるのでしょう。どこに「聖徒の交わり」があるのでしょう。「聖徒の交わり…を信ず」と言い表すことに、いったい何の意味があるのでしょう。

 しかし、もし誰の目にも明らかなことであるならば、何も「信じる」必要はないわけです。「信じる」のは、既に与えられているけれども、まだ目には見えないことがあるからでしょう。いまだ現れていない本質がそこにあるからでしょう。そもそも「聖徒」という言葉で言い表されているのは、少々清くなった人間などではありません。それは完全に神のものとされた人間です。聖徒の交わりとは、完全に神のものとされた交わりです。それはこの世に存在するのでしょうか。いいえ、それはただ神のみによって実現することなのです。そして、事は既にキリストにおいて始められているのです。神はまず私たち罪人をまるごと受け容れて、御自分のものとしてくださいました。教会は神のものとされているのです。それゆえにキリスト者は、紀元一世紀のあの初めの頃から、互いに「聖徒」と呼び合うことをためらいませんでした。やがて、神のものとされていることがいかなることかを、完全に現される時が来るでしょう。私たちは、この地上においてその前味を味わいつつ、救いが完成されるその時を待ち望みながら、「聖徒の交わりを信ず」と唱えるのです。                (清弘剛生)

キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。 1コリント1:26

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「御国が来ますように」という祈りに、この第三の祈りが続きます。これは第 二の祈りの内容的な展開であると考えられます。「御国が来ますように」と祈る ということは、天におけるように地の上にも神の御心が行われることを願い求め ることでもあるからです。 「地の上に御心が行われること」を求める祈りは、現実には地の上に御心が実 現していないという事実を示しています。実際私たちはそのような世界に生きて いるので