「聖霊によりて宿り」(使徒信条6)
私たちは使徒信条においてイエス・キリストへの信仰を告白する時、「主は聖霊によりて宿り」と言い表します。これはキリストの誕生が神の霊の関与する奇跡であることを意味します。これはまた、私たちの救い主が、単に歴史上に現れては消えていった数多くの偉大な人物の一人ではないことを意味します。クランフィールドという新約学者はこのことを次のように表現しています。「イエス・キリストは、わたしたち人間の歴史の延長線上に現れ出た救い主ではなく、歴史の外側から歴史の中に人となって介入した神なのである」。
このことは、救い主がいかなる救いをもたらすために来られたかということに関係しています。病気の癒しが救いなら、人の手によっても実現します。あるいは最終的には誰も救われないとも言えます。最後の病気は癒されませんから。経済的な困窮からの解放や政治的抑圧からの解放が救いならば、ある程度は人の手によって実現され得ます。心の安らぎが救いなら、過去の偉大な教師たちの教えによっても得られるかもしれません。しかし、根本的な問題が《人間の罪》にあるならば、人間には解決できません。人間の苦悩の根源が、罪によってもたらされた神と人との断絶にあるならば、そこからの救いをもたらすことは人間にはできません。罪を赦し、罪責を取り除き、神との交わりに回復し、永遠の命を与えることは、純粋に神だけがなし得る救いの御業です。それゆえに、救い主の誕生は、単に偉大な人間の誕生以上の出来事でなくてはなりませんでした。人間が本当に必要としている救いはただ神のみから来ることを、「聖霊によりて宿り」という言葉は言い表しているのです。 (清弘剛生)
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 ルカ1:35
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