私たちは、使徒信条を唱えます時、「聖徒の交わり」を信ずることを言い表します。実は、「聖徒の交わり」と訳されているラテン語は、「聖なるものの交わり」とも訳せる言葉でありまして、恐らく、どちらをも意味するように意図されているものと思われます。「聖なるものの交わり」と訳された場合、それは「聖なるもの」を共有し、分かち合うことを意味します。私たちは趣味やイデオロギーを共有するのではありません。聖餐においてキリストの体と血とにあずかり、キリストを共有するのです。そのようにして成り立つ交わり、それが教会における交わりです。キリストを共有することによる交わりでありますから、そこでは全く異なる者の交わりが成り立ちます。この世界において本来だったら対立しているはずの者たちの交わりも成り立つのです。実際、初代教会においては、異邦人とユダヤ人が、奴隷と主人が、同じ食卓についていたのです。それゆえにまたパウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)と語り、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)と語っています。キリストによって隔ての壁が取り壊されているからです。世界の平和を求めることは大事なことです。しかし、私たちはまずキリストがわたしたちの交わりであり平和であることに目を向けねばなりません。神が与えてくださる小さな平和を味わうことのできない人は、本当の意味において大きな平和について考えることも求めることもできないからです。 (清弘剛生)
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 1コリント10:16
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