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受難週を御言葉と共に歩むために 「受難週 日毎の糧」

受難週 日毎の糧(A5 閲覧用)

受難週 日毎の糧(印刷用)

二つ折りにして綴じてください。

2020年4月5日 更新

 受難節最後の主日(今年は4月5日)は、【棕櫚の主日】と呼ばれ、この日から受難週がはじまります。イエスのエルサレム入城から、十字架につけられ、死んで葬られるまでのキリストの最後の一週間の歩みを覚えて過ごします。

 イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城したとき、人々は自分の服を道に敷き、棕櫚の葉を振って歓迎しました。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ12・9)と。人々は、自分たちをローマの支配から解放してくれる偉大な王が来たと思ったのです。この人々がイエスに抱いていた『願い・望み』は、わたしたち誰しもが抱くものでしょう。しかし、受難週を過ごすわたしたちは思いを巡らさなければなりません。イエスのエルサレム入城を喜び迎えた人々とイエスを十字架につけた人々とは、異なる人々なのでしょうか。

 主と共に旅をしてきた弟子たちは、主の言葉を誰よりも近くで聞き、主が起こされる奇跡や主が人々と関わる姿を幾度となく目にしてきた人々です。そして、主を心から尊敬し慕っていた人たちともいえるでしょう。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」(同26・35)ペトロのこの言葉に嘘、偽りの思いはあったでしょうか。ペトロなりの覚悟と決心が込められていたのではないでしょうか。しかし、わたしたちは知っています。人間の決心や覚悟がいかに脆く弱いことを。

 主の受難の歩みをたどることは、十字架の道を歩む主に目を向けると同時に、その主を取り巻く人々に思いを向けることでもあります。主を十字架にかけ殺したのは、わたしたち一人ひとりの罪なのです。聖書に記されている人間の姿(言葉や行い)に、自らの姿を重ねることなしに主が歩まれる十字架の道をたどることはできません。

 受難週は、わたしたちの罪の深さをしっかりと見つめつつ、さらに深い神の愛に導かれて歩む一週間です。わたしたちのために十字架を背負われた主は、今日何を呼びかけているのでしょうか。日々、御言葉に聴き、主と共に十字架の道を一歩ずつ歩んでいきましょう。

 憐れみ深い天の父、わたしたちの受難週の歩みを導いてください。主の十字架が、わたしたちを回心へと導き、復活の光へと向かわせてくださいますように。

 受難週を主と共に、そして頌栄教会の家族と共に歩んでいけるように、このような冊子を作成いたしました。聖書を持ち歩くことが困難な場合も、この冊子を用い、日々、主の言葉に耳を傾けましょう。一日の糧をいただくのですから、起床後、あるいは午前の時間に行うことをお勧めします。通勤・通学の移動時にもこの冊子を開いていただけることを願っています。

 

 

 

日本キリスト教団 頌栄教会

牧師 清弘剛生

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