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  • 執筆者の写真頌栄教会

「レントの黙想」(2)

 神の恵みが必ずしも恵みとして受け取られるとは限りません。確かに恵みは届いています。人は恵みにあずかることもできますが、もう一方において、与えられた恵みを無駄にしてしまうこともあり得ます。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(2コリント6:1)と書かれているとおりです。それは十字架につけられていた二人の犯罪人の姿にも現れています。

 犯罪人の一人はこう言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。具体的には十字架から我々を降ろしてみろ、ということでしょう。彼が求めたのは十字架刑の苦しみから解放されることでした。苦しみがあれば苦しみから解放されることに救いを求める。それは私たちにも良く分かります。私たちも常々そうしていますから。問題があれば解決されることに救いを求めます。病気ならば癒されることに救いを求めます。死に直面したならば、死なないで少しでも長く生きられることに救いを求めます。個人的な事柄だけではりません。当時の熱心党員だったら、ユダヤ人社会全体がローマから解放されることに救いを求めるでしょう。苦しみから解放してくれてこそ救い主、メシアだと思う。期待に応えてくれないようなメシアなど要らないのです。

 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった」と書かれています。「お前はメシアではないか」というのは、ののしりの言葉だったのです。なぜののしっているのか。十字架にかけられているメシアだからです。一緒に苦しんでいるようなメシアは要らないのです。

 この二人には等しく恵みが届いていました。しかし、その一人は残されている力を、救い主をののしるために使ってしまいました。      (清弘剛生)

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 ルカ23:39

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