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  • 執筆者の写真頌栄教会

「レントの黙想」(3)

 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。十字架にかけられた犯罪人の一人がそう言ってイエスをののしりました。しかしその時、もう一人がこう言ったのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」。――本当に必要なのは十字架から降ろしてもらうことなのか。いや、もっと重大なことがある。もう一人はそのことに気づいたのです。この二人はまさに人生の終わりに差しかかっているのです。それは単なる苦しみの時ではないのです。災いの時ではないのです。それは、人生そのものを問われている時なのです。与えられた命をどのように生きてきたのかが神の御前において問われている時なのです。そのような、この上なく厳粛な時を迎えていることに、もう一人は気づいたのです。彼が十字架にかけられているのは、確かに人間の裁きを受けた結果なのでしょう。しかし、最終的に裁く権威をお持ちなのは神です。真に人生を問われるのは、神の御前においてであることに、彼は思い至ったのです。

 ならば他人を裁いている場合ではありません。他人をののしっている場合ではありません。彼は叫びました。「お前は神をも恐れないのか」と。彼には分かっていたからです。神の御前においては、一人の罪人として立たざるを得ないということを。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです」(ヘブライ4:13)。ならば本当に必要なのは十字架から降ろしてもらうことではないでしょう。もっと重大なことがある。神の御前においてその人生を問われている罪人が、それでもなお救われるのか否かということであるに違いありません。彼は残されている力を、救いを求めることに使ったのでした。(清弘剛生)

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 ルカ23:40‐41

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