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  • 執筆者の写真頌栄教会

「レントの黙想」(4)

 彼は最後の力を振り絞るようにして、こう言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。

 「あなたの御国」とは「あなたの王国」という言葉です。彼はイエスこそ天の王座にお着きになる御方だと信じたのです。王であるということは、裁きの権威を持っているということでもあります。天の王座に着いて、最終的に人間を裁く権威を持っているのはこの御方であると彼は信じたのです。

 罪を裁くことのできる御方を前にして、人は何を思うのでしょう。罪に満ちた一生を思うならば、「わたしを忘れてください」と口にするのが自然なのかもしれません。「わたしが生きていたことなど忘れてください。わたしがしてきたすべてをどうぞ忘れてください」と。しかし、彼は言ったのです。「わたしを思い出してください。わたしを覚えていてください」と。どうしてですか。この御方は、イエスという王は、きっと憐れんでくださるに違いないと思ったからでしょう。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。その声が届くほどに近くにいた彼は、その憐れみの中に自分もいると信じたのです。イエスという王は、その裁きを行う権威をもって、赦しを宣言してくださるに違いない。私の人生そのものに赦しを与えてくださる御方であるに違いない。彼はそう信じたのです。その意味において「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉は、天の王座に着くべき御方に罪の赦しと憐れみを願う切なる祈りであったとも言えるでしょう。人生の終わりにさしかかったこの人にとって、本当に重要なことは十字架から降ろしてもらうことではなくて、罪を赦していただくことだったのです。 (清弘剛生)

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 ルカ23:42

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