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「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」(使徒信条17)

 キリストは何のために来られたのか。使徒信条は最初の来臨の目的について一言も触れてはいません。単純にその出来事を列挙するのみです。しかし、「かしこより来たりて」と表現されているキリストの再臨については、来られる目的をはっきりと述べています。「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と。

 「審きたまわん」とは、まず事実を明らかにするということです。個人の人生にせよ、この世界の歴史にせよ、事実の大部分は知れることなく、隠されたままです。しかし、神に対して隠されていることはありません。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです」(ヘブライ4:13)。そのように神のみぞ知る事実を、キリストがすべて明るみに出される時が来るのです。死んだらすべては帳消しになると思ってはなりません。そこには「生ける者と死ねる者とを」とはっきりと語られています。死者生者を問わず、すべての罪もまた明らかにされます。そして、「審きたまわん」とは、明らかにされた事実に基づいてキリストが判決を下し給うことを意味します。最終的に滅ぼすこともできるし、罪を赦して救うこともできる。最後の言葉を持っておられるのは他ならぬこの御方だということです。

 しかし、再び来られるキリストは、かつて来られた御方でもあります。最後の言葉を持っている御方は、かつて私たちのために十字架にかかられ、死から復活されたキリストに他ならない。――その信仰を使徒信条は言い表しているのです。そこにこそ私たちの救いの希望はあるのです。        (清弘剛生)

そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 使徒言行録10:42

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